
- 貿易大名 島津家の歩み -

A. 島津氏の誕生
島津氏の起源は、今からおよそ800年前、源頼朝から南九州に広がる広大な荘園「島津荘」の地頭職・下司職に任じられた惟宗忠久が、自らの名字を「島津」「」と改めたことに始まります。初代・忠久は薩摩・大隅・日向の三国の守護にも任じられ、南九州支配の中核を担いました。
忠久が支配を任された南九州は日本の海の玄関口にあたり、中国・東南アジアと海の道で結ばれた貿易拠点として、古代より重要視された土地でした。このため島津氏も13世紀後半のモンゴル襲来をきっかけに南九州下向し、当主自ら本格的な領国経営に乗り出します。14世紀後半になると、東アジア諸国との往来が一層活発になり、多くの舶載品が行き交うようになります。島津氏も海外との交流・交易に積極的に携わり、貿易大名としての地位を築いていくことになりました。

B. 戦国大名島津氏
室町時代以降、在地勢力との激しい争いの中で島津本家は弱体化し、冬の時代を迎えます。そうした中で勢力を伸ばしたのが、分家のひとつ相州家の島津忠良・貴久父子でした。貴久は本家の養子に迎えられ家督を継承すると、15代当主として分裂状態にあった本家の再統一を果たします。さらに、貴久の子である義久・義弘・歳久・家久ら四兄弟の活躍によって悲願であった三州平定を成し遂げ、一時は九州全土をほぼ掌握する最大版図を築きました。
しかし関白となった豊臣秀吉の大軍が立ちはだかると、島津氏は降伏。領国を薩摩・大隅・日向諸縣郡にまで削減され、その後も政権への奉仕を強いられます。さらに秀吉の死後は徳川家康と石田三成の対立に巻き込まれ、関ヶ原の戦いでは義弘が反徳川の西軍につくことになってしまいます。家康との対立は島津氏にとって不本意でしたが、義弘は困難な戦場を決死の敵中突破で辛くも脱出し、薩摩へ帰還しました。

C. 近世大名島津家
関ヶ原の戦い後、18代島津家久は徳川政権との和平交渉を粘り強く進め、島津家は薩摩・大隅・日向諸縣郡の本領を維持したまま近世大名として存続します。背景にあったのは、中世以来島津家が担ってきた海外貿易における役割を家康が重視したことでした。慶長14年(1609)には家康の許可を得て琉球王国を支配下におさめ、琉球を窓口に中国との貿易を続けます。こうして島津家は家康と対立したにもかかわらず異例の厚遇を受け、薩摩藩72万石を支配する大大名の地位を確立しました。
1630年代に幕府の鎖国体制が完成してもこの「琉球口貿易」は続き、交易による利益が藩財政を支えるとともに、海外の文物・情報を入手できる体制が維持されます。18世紀後半、25代当主の島津重豪は海外の知識を広く収集して薩摩藩の文化を向上させ、藩内の制度整備や城下町の発展にも力を尽くしました。
- 島津家と日本の近代化 -

D. 近代化への挑戦
19世紀に入ると、産業革命を成し遂げた英国・フランスをはじめとする列強が、自由貿易を求めて軍事力を伴い東アジアに進出しました。日本の海の玄関口を支配する薩摩藩は、その脅威に真っ先に直面していました。
この国際情勢の変化に強い危機感を抱いたのが、28代島津斉彬です。斉彬は日本を強く豊かな国へと生まれ変わらせる必要があると考え、嘉永4年(1851)に藩主に就任すると、ただちに富国強兵・殖産興業政策を推進しました。鹿児島城下近郊の仙巌園隣接地に「集成館」と呼ばれる一大工場群を形成し、造砲・造船・紡績・ガラス・通信など多岐にわたる産業分野の近代化に力を注ぎました。

E. 受け継がれる志
安政5年(1858)7月、島津斉彬は志半ばで急逝すると、弟久光とその子29代・忠義が斉彬の志を受け継ぎました。文久3年(1863)の薩英戦争を経て、多くの薩摩藩士が近代化の重要性を再認識すると、忠義らは戦争で大きな打撃を受けた集成館をただちに再興します。また慶応元年(1865)には英国へ外交使節・留学生を派遣するなど、西洋の知識や技術の導入を積極的に推進し、集成館は再び当時の国内で類を見ない先駆的な工場群として復興します。
さらに中央政界においても亡き斉彬が目指した公武合体の実現を目指しますが、次第に徳川慶喜との対立が深まっていきます。やがて慶応4年(1868)正月に戊辰戦争が始まると、薩摩藩は集成館事業で培われた藩の軍事力・産業力をいかんなく発揮し、新政府軍の中核として活躍しました。

F. 島津家と近代日本の歩み
明治維新後、版籍奉還・廃藩置県を経て、鎌倉時代以来700年以上に渡る島津家の南九州支配は終わりを告げました。集成館も政府のものとなりますが、陸軍・海軍の管轄下で引き続き稼働を続けます。しかし明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、西郷軍・政府軍双方が工場群を確保しようと争ったことで集成館は戦場となり、激しい戦火で工場の大半が焼失してしまいました。以後、集成館の工業的な地位は低下していくものの、集成館事業で培われた技術・人材は全国各地へ広がり、明治日本の産業化を支える基礎となりました。
一方、華族となった島津家は近代国家の中で要職を務めつつ、鹿児島県内において鉱山・山林・新田の開発などの事業を展開します。これらは大正11年(1922)に設立された薩摩興業株式会社に継承され、現在の株式会社島津興業へと繋がることとなりました。